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年齢 |
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明治 |
24年 |
1 |
8 |
徳山村西町の船大工高橋源蔵の長男として出生(戸籍上は明治27年9月弟と双生児として届けられる) |
明治 |
32年 |
6 |
8 |
一年遅れで岐陽尋常小学校(徳山小学校)へ入学 |
明治 |
39年 |
3 |
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岐陽高等小学校3年で退学(下関商業学校進学を断念) |
明治 |
39年 |
5 |
15 |
大阪船場の袋物問屋徳田本店に丁稚奉公(翌年5月退店) |
明治 |
40年 |
6 |
16 |
朝鮮城津の二田商会(のちの塩田商店)に入店 |
明治 |
45年 |
1 |
21 |
退店(貯金845円)、郷里徳山に帰る。4月、早稲田大学商科予科入学 |
大正 |
2年 |
9 |
22 |
早稲田大学商科本科進学。1年間特待生となる |
大正 |
5年 |
7 |
25 |
早稲田大学商科卒業。久原鉱業に入社(月給25円)、大阪本店査業郡に勤務 |
大正 |
7年 |
2 |
27 |
東洋経済新報社に入社「財界要報」欄担当 |
大正 |
8年 |
11 |
28 |
欧米経済視察(経費8,000円たらず) |
大正 |
10年 |
3 |
30 |
帰国後から『前衛』『マルクス主義』『社会主義研究』などに執筆、 日本資本主義研究家として知られる |
大正 |
10年 |
9 |
30 |
八戸の武藤一明の次女篠子と結婚、大森の借家に新居を構える |
大正 |
12年 |
11 |
32 |
父死亡 |
大正 |
13年 |
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33 |
『経済学の実際知識』出版、10万部売れる。「東洋経済新報」編集長 |
大正 |
15年 |
6 |
35 |
東洋経済新報退社、経済評論家として独立。青山の新居に移る |
昭和 |
3年 |
2 |
37 |
第一回普通選挙に日本農民党党首として山梨県から立候補。次点で落選。社会運動から手を引く |
昭和 |
4年 |
2 |
38 |
旧平価金解禁反対論展開(高橋亀吉、石橋湛山、小汀利得、山崎靖純) |
昭和 |
6年 |
2 |
40 |
妻篠子四女を残して死去。6月、篠子の妹萬里と再婚 |
昭和 |
7年 |
10 |
41 |
「高橋経済研究所」創立(所員11人) |
昭和 |
8年 |
8 |
42 |
「太平洋問題調査会」第5回大会(カナダ パンフ)に日本委員として参加 |
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世界恐慌下の欧米経済を視察研究、12月まで |
昭和 |
10年 |
9 |
44 |
内閣調査局専門委員に任命される |
昭和 |
11年 |
1 |
45 |
「高橋財界月報告」創刊(昭和23年公職追放になるまで続く) |
昭和 |
12年 |
6 |
46 |
近衛内閣企画院参与に任命 |
昭和 |
17年 |
2 |
51 |
国策研究会常任理事調査局長として大東亜共栄圏の具体的構想を研究 |
昭和 |
20年 |
1 |
54 |
秘密裡に敗戦後対策の研究を開始 |
昭和 |
21年 |
4 |
55 |
高橋経済研究所解体。(財)日本経済研究所創設 |
昭和 |
23年 |
5 |
57 |
GHQにより追放。株式評論を開始 |
昭和 |
26年 |
6 |
60 |
日経新聞の「大機小機」欄に寄稿開始、続いて「一言多言」への定期寄稿を25年余り続ける |
昭和 |
30年 |
9 |
64 |
通産省顧問(1957.10まで) |
昭和 |
31年 |
4 |
65 |
拓殖大学教授就任 |
昭和 |
31年 |
12 |
65 |
東洋経済時代の先輩であり盟友の石橋湛山総理大臣に就任 |
昭和 |
33年 |
8 |
67 |
昭和20年から青山で同居していた母シツ死去。経済学博士となる |
昭和 |
34年 |
10 |
68 |
経済史研究に専念のため株式・景気評論からの引退を表明 |
昭和 |
35年 |
7 |
69 |
池田内閣所得倍増計画。そのブレーンの一人として研究に参加 |
昭和 |
40年 |
12 |
74 |
左足大腿部骨折で5カ月静養 |
昭和 |
42年 |
7 |
76 |
勲二等瑞宝章受賞 |
昭和 |
43年 |
11 |
77 |
「日経図書文化賞」受賞『日本近代経済形成史』全3巻による |
昭和 |
48年 |
4 |
82 |
拓殖大学退職、同名誉教授となる |
昭和 |
49年 |
11 |
83 |
文化功労賞 |
昭和 |
52年 |
2 |
86 |
肺腫瘍のため逝去。勲一等瑞宝章受賞 |
昭和 |
59年 |
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東洋経済新報社から「高橋亀吉賞」授与始まる(経済論壇の芥川賞といわれる) |
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参考:鳥羽欣一郎著『エコノミスト高橋亀吉 生涯現役』他より徳山商工会議所青年部作成 |